精神疾患はもはや「カルチャー」ではない〜『クワイエットルームにようこそ』

まったく医療監修されていない「クワイエットルーム」の様子が、監督にとって精神疾患が「フィクション」であることを象徴していた。精神疾患カタルシスとしてとらえる姿勢は、とても90年代的。

(以下、ネタバレ的表現あります。)


あんな狭くて高いベッドに、暴れる人を「安全に」拘束することはできない(あのベッドは手術室用のもので、患者が動くことが想定されていない作りである)。また、あんなふうに腕を拘束したら、肩を痛めるどころでは済まず、末梢神経障害を引き起こしかねない。……少しでも取材をしたらすぐにわかったはずのことを「あえて」あのように表現したのだとすれば、(無意識であったとしても)表現上必要だと考えて、リアリティを排除した方を選択した、ということなのだろう。


「精神科閉鎖病棟」への入院という「了解不能な状況」に、次第に「了解可能な理由」が見つかって行く……その理由のキーワードも「生き難さの隙間の恋愛」「社会的安定の象徴としての子ども(家族)」「生きる意味」と、あまりにも90年代的。病棟の様子も、医者は閻魔大王、ナースはさしづめ生殺与奪を掌握する地獄の番人、診察は「首尾よくこなすべき」試験……まさに「アサイラム」のような世界として描かれている(それも、病棟そのものは背景として、さもリアルを写し取ったようなエキセントリックなエピソードを織り込みながら、だ)。閉鎖病棟で過ごした証しである「寄せ書き」をすぐに捨てるシーンも、閉鎖病棟という「この世の果てのワンダーランド」との「境界」と「決別」をダイレクトに表現する。


正常と異常を分ける境界がどんどん曖昧になっている「今」、このストーリーは、韓流ドラマ的のようなステレオタイプな安心感は生み出せても、それ以上のものを生みだすことは難しいのではなかろうか。30〜40才代の「90年代の思い出」を持つ層、あるいは「美しい家族」という言葉に何の疑いも持たないような中流安定層には訴求するかもしれないが、それは監督の意図に合致しているだろうか。いまどき精神科を持ってきても、サブカルチャー的なセンシティブさを表現することはできない。テーマもプロットもout of dateだ。


それにしても、病気には、ここまで理由が必要なものなのだろうか……もしそうだとすると、「まったく理由もなく」病気になった人は、理解のフレームを永遠にもてず、本当に、本当に苦しむことになる。そのような結論しか導けない価値観は、もう、辛いだけだと思うのだが。


役者の演技は抜群であった。圧巻は大竹しのぶで、これぞ職人芸。個人的には蒼井優のかわいらしさにノックアウト。


可能であれば、作品の冒頭で「本作品で描かれる精神科病棟は 表現上必要な演出を施したフィクションであり 実在の精神科とは一切関係ありません」あるいは「20XX年 第3新東京市等のキャプションを入れることをおすすめしたい。


2007年、精神疾患は誰にでも起こりうる「病気」であり、もはやカルチャーではないのだ。

クワイエットルームにようこそ

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