やる夫に触発されたので、「後期高齢者医療制度は現役世代にも厳しい」ことを頑張って書いてみる

やる夫で学ぶ後期高齢者医療制度【働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww】を拝見しました。
私自身は政策を理由に民主党を支持することは(今のところ)ありませんが、後期高齢者医療制度そのものは、かなりバランスの悪いシステムで、改善が必要だと思っています。
「やる夫で学ぶ後期高齢者医療制度」は、小泉改革を推進した側の主張を良く表していると思いますし、「民主党の反論がもっとも票になりやすい世代をターゲットにしている」という点も分かりやすかったと思います。しかしながら、「やる夫で学ぶ後期高齢者医療制度」は基本的に小泉改革が何を行ったかを改革サイドの主張に沿って解説したものであり、本質的な論点を提供できていないと感じました(まあ報道にのってくる反論があの程度なので仕方ないですが)。
今後20年を現役として生きなければならない世代としては、小泉改革では言及されなかった未来予測についても、いっとかなきゃなんないよなーと思いましたので、ちょっと頑張って書いてみます。

skyk的結論

『2030年まで帳簿をあわせて逃げ切るシナリオが後期高齢者医療制度。それを受ける側、支える側の「social security 社会保障」のシナリオはまだ誰も書いていない。ゆえに、いまのままだと私らまじで地獄見るわ』

  • (1)「後期高齢者医療制度」のシステムについて
    1. 保険料をたくさん使う集団を切り分けることは、保険の「逆選択」を進めることになるので、75歳以上人口が増えていく中、後期高齢者医療の保険料は上がることはあってもさがるのは難しい(後述の「年寄り向け値段」が設定されれば別)。
    2. 後期高齢者に対する医療費を削減することを目的に、後期高齢者を切り分けて見やすくしたうえで、後期高齢者向けの診療報酬を独自に設定して診療行為に「年寄り向け値段」を設定する可能性を開いた。
  • (2)小泉医療改革は本当に医療費を削減したか
    1. 小泉改革が削減に成功した「医療費」は、いわゆる「社会的入院」部分の医療費である。しかしこの部分は、「非生産+要介護」層へのの社会保障(≒介護費)として使われていた、とみなすことができる。ちなみに、介護保険に移行した費用は医療費にはカウントされていない。
    2. 在宅介護・在宅死の推進は、介護・医療看護の人件費をそのまま家庭の家計にスライドさせるもの、ともいえる。つまり、看護師さんヘルパーさんに任せる代わりに「妻」「嫁」に任せるということ。
    3. 居住型の介護施設のみを考えた場合、社会的入院の受け皿であった療養型病床を削減して、公的な介護保険を利用できる特別養護老人ホーム(特養)・老人保健施設(老健)を十分量確保しないことは、ところてん式に民間の有料老人ホームの需要を押し上げることになる。しかし、民間施設の場合は全額負担であるから、利用できない層は「仕方なく」家庭介護をせざるを得ないことになる。
  • (3)で、自分の人生で何がおこるのか
    1. 結婚する人たちの間でも晩婚化が進む中、現在の現役世代では、親の介護と子育ての時期がかぶる可能性が非常に高くなる。つまり、介護費と子育て費が同時に家計を襲う可能性が高い。
    2. 世帯所得を上げるために共働きしなくてはならない世帯では、働くために親を預けたいのに、公的施設の空きがなくお金もないので預けられない、ということになる可能性がある。ここに未就学児童なんかがいたら、本当に大変である。
    3. 専業主婦できる妻・家事手伝いできる娘を家におく余裕のない家庭では、在宅介護・在宅死は「無理。ていうか、ありえない」。
    4. 日本の自己負担医療費の特徴は『自己負担額はそんなに高くないけど、貧乏人ほど負担が重い*1』。所得格差が今後さらに広がった場合、所得にあわせて医療費の負担額があまり変化しない現状の仕組みが変わらなければ、所得の低い家庭は本当に大変な目にあうが、高所得層から「そうでもないんじゃない?」と黙殺されてしまう可能性がある。

では、それぞれ解説していきます。

(1)「後期高齢者医療制度」の目的は“保険料負担軽減”ではなく“被保険者を切り分ける”こと


事故ばっかり起こす人を集めた自動車保険のなかでは、事故を起こさない人の保険料も高くなるので、その保険に入る人がいなくなる、というのが「逆選択」です。
後期高齢者というのは、ほとんど全員が医療のお世話になる「高リスク集団」です。つまり、後期高齢者医療制度の枠の中には「保険料を使う人」ばっかりが集められているわけです。ですから、保険料はどうしたって高くなります。今後しばらく、75歳人口はどんどん増えていきますから、医療提供側の状況が変わらない限り、保険料は増えることはあっても減ることはないでしょう。
ですから、後期高齢者医療制度を作ったのは、少なくとも保険料の負担を軽減するためではないだろうということが分かります。
では、「逆選択」を進めるような、高リスク集団である後期高齢者の「切り分け」をあえて行った本当の目的は何でしょうか。
これは私の意見になりますが、後期高齢者に対する医療費が「多すぎる、まだ削れる」という判断があり、それを医療提供側ではなく行政側からコントロールするための「後期高齢者診療報酬システムの分割」がその目的ではないかと思われます。
このような強引な手法に出ざるを得ない事情は、日本の医療政策において「医療提供側=医者・医療従事者のイニシアチブ」が非常に見えにくい構造を持っているからだと私は考えています。

日本の医療政策は主に「診療報酬」で行われている


日本の医療保険制度の特徴として、診療報酬というものがあります。


日本の病院の多くは、国の持ち物ではありません。自治体立や国立でない病院は、ほとんど全て個人か医療法人の持ち物になっていて、医療政策上、病院多いからといって減らすように命令したり、逆に足りないからといってどんどん作るように命令したりもできません。また、経営権も厚生労働省にはありませんから、経営の効率化などにも直接手を出すことができません。これは日本の医療政策上、非常に大きなポイントです。


その代わり厚生労働省は、(中医協*2という審議会を通してからですが)あらゆる診療行為の「値段」を決めることができます。この値段を「診療報酬」といいます。


たとえば、インフォームドコンセント(説明と同意)が大切だ、これを普及させることは日本の医療の改善につながる、という判断があったとします。でも、「大事だ大事だ」というだけでは、実際の医療現場に広がっていくには大変な時間がかかり、またその質もばらばらになってしまいます。
そこで厚生労働省は、「決められた条件を満たした説明書を作って患者さんに説明する」という診療行為に対して値段をつけ、保険請求をしていいよ、と促します。すると、ただ「大事だ」と言っているだけではなかなか広がらないことでも、値段がつくことで病院(経営陣)が積極的に取り入れるようになり、ある程度のスピードで全国に浸透させることができます。
反対に、社会的入院と呼ばれる「あまり医療をしないですごしているだけ」の患者さんを減らそうと思ったら、そのような条件の患者さんの診療報酬を、うんと減らしてしまうわけです。そうしたら、病院(経営陣)はつぶれるのがいやですから、そのような患者さんを何とか在宅にもどしたり、老人ホームに移したりします。その変化に対応できない病院は、つぶれてしまいます。


このように厚生労働省は、病院の数や病院経営などに直接口だしできない代わりに、診療報酬を通して間接的に医療政策を実行しています。
この診療報酬は、2年に1回、4月1日に改定されます。この時期はどの病院も妙にあわただしくなります。今まで病院でしてもらえていたことができなくなったりして、にわかに医療問題のニュースが増えるのが大体4月中旬頃です。


医療政策をダイレクトに打ち込むには、対象者を切り分けるしかない


さて、日本の医療政策は、主に厚生労働省が「診療報酬」を使って間接的に行っているわけですが、この仕組みの中で後期高齢者にかかる医療費を削減しようと思ったら、どうすべきでしょうか?


そうです。後期高齢者に対する診療報酬を下げればいいわけです。


これまでの保険の枠組みの中では、75歳以上を狙い撃ちにすることは非常に難しかった。しかし、後期高齢者を対象とした保険が切り分けられていれば、ダイレクトに「後期高齢者医療制度に適応する診療報酬」を立てることができます。


非常に大雑把にたとえて見ます。
心筋梗塞で患者さんが運ばれてきたときに、その人が75歳未満なら、冠動脈バイパス手術(保険点数は51100点=51万千円)をしても、ちゃんと保険請求ができる。
ところが、75歳以上なら「病院は何をしてもいいけど、全部で20万円までしか保険料を払わないよ」という制度になっていたとしたら、どうでしょう。
病院はおそらく、はじめから手術を勧めず「手遅れです」と説明するか、救急車を断るかしてしまうかも知れません。しかし、これが一番確実に医療費が削減できる方法であるのは確かです。
いまのところ、全部でいくらしか払いませんよ、という「包括払い」は慢性期の外来治療の一部だけにとどまっていますが、今後どうなるかは分かりません。

現場は板ばさみになっている


「なんだよ、結局病院は金のことばっかりかよ」と思った方も多いと思います。
実はここにもからくりが一つあります。
病院を経営している人と、病院で働いている医者は、立場が違うんです。(小さな個人病院では同じですし、院長は医者でなければならないので、この辺微妙なんですけど)
経営している人たちは、側は病院存続のために現場の医者に診療報酬にもっとも有利な診療行為をするように促します。病院をつぶして職員を路頭に迷わせるわけには行かないので、当然です。
しかし、現場の医者にとっては、それが「一番いいと思う診療行為」ではないこともあり、頻繁にジレンマを感じる。上の例に沿って説明すると、75歳を越えているおじいさんだけど、すごく体力もありそうで、もしかしたら手術をしたら成功するかも……とか考えてしまうわけです。そこで現場の医者同士で話し合ったあげく、やっぱり手術を勧めるのはよそう、と言う判断になったとすると、患者さんとご家族さんは、目の前の医者がそれを決めたんだと思いがちです。「おじいちゃんはこんなに元気な人なのに、年だけで切り捨てるのか」と食ってかかったり、涙を見せたりする。


この例えはフィクションで、今の日本ではありえません。でも、例えば外来リハビリをやめなくてはならないだとか、療養型病床を3ヶ月で退院しなければならない等であれば、最近ではありふれた話になります。小泉改革以降、現場にはこのようなジレンマが非常に強くなっていて、現場の医者は非常に板ばさみになりやすい。これは、「医療崩壊」の遠因の一つになっているのではないかと私は考えています。

「消極的安楽死」の議論なしに後期高齢者の医療費削減はありえない


さて、ここで少し突っ込みまして、「後期高齢者の医療費を削減するのに、先に予算の上限を設けるような政策はしんどいんじゃない?」ってことを言っておきたいと思います。
話題にしたいのは、ちょっと古いんですけど次の新聞記事です。

終末期医療費:「自宅死」4割で5000億円減――25年度、厚労省試算

厚生労働省は28日の自民党社会保障制度調査会医療委員会で、自宅や介護施設で死亡する人(02年度は全死亡者の18%)の割合を4割に引き上げることで、2015年度の医療給付費を約2000億円、25年度には焼く5000億円削減できるとの試算を示した。

政府の経済財政諮問会議は、給付費の伸びを経済成長率内に抑える「キャップ制」導入を主張しているが、同省は終末期医療の見直し、平均入院日数減などによる給付抑制効果を指標化して対応したいとしている。

02年度の年間志望者数約98万人のうち、約80万人は入院先で死亡した。死亡前1ヶ月の終末期医療費は1人平均112万円(うち入院医療費約41万円)で、総計は約9000億円。今後、年間死亡者数は毎年2万人超ペースで増える見通しで、同省は自宅訪問診療が可能な医師の確保や訪問看護の普及、介護施設整備により医療機関での死亡者数割合を減らすことを想定している。また同省は、25年度の給付費について、平均入院日数(02年38日)の短縮などを抑制指標に盛り込む。【吉田啓志】

毎日新聞 2005年7月29日 東京朝刊


この後、2006年から医療改革関連法案が怒涛のごとく成立するわけですから、ちょうどそのたたき台になった論点です。

このときに俎上にあがったのが、「高齢者が亡くなるときに、いろいろ無駄な医療をやりすぎているのではないか」ということでした。
「スパゲティ症候群」という言葉が、以前さかんに取り上げられました。亡くなる瞬間までいろんな管につながれて、病院で亡くなるお年よりは「尊厳死」とはほど遠い状態で見送られているのではないか。
だから病院ではなく、家で亡くなる人をもっと増やせば、尊厳死も尊重できて、おまけに医療費も節約できるのではないか、という発想があったわけです。


この発想の問題点は当然、「ひとの最期の姿のありよう」の問題と、医療費というお金の問題を、安易に結び付けてしまったため、後期高齢者の医療費にキャップをはめてしまえば「良い終末期が実現できる」かのような印象を与えてしまったことです。


終末期医療費を考えるときには必ず言及しておくべきキーワードがあります。
「消極的安楽死」、つまり「できる医療行為をあえてしないで亡くなるのを待つこと」です。
家で死ぬということは、「病院に運んだら助かったかも知れないのに、あえて運ばない」ことでもあります。医療費を減らす、ということは「これまでしていた医療行為をある程度のところでやめる」ことなのです。


しかしながら、この「消極的安楽死」に関する議論もまだ不十分です。
医療費削減を目的としているなら、後期高齢者医療制度とセットで通さなければならなかった「延命治療中止の同意」を普及させるための診療報酬化も、政治判断で撤回されてしまいました。
たとえ患者さんの意思が強固なものであったとしても、現在のところ、治療を中断した医師を守る術は何もありません。その場にいた家族が全員同意していても、遠い親戚が民事裁判に訴えでたら敗訴する可能性は十分あります。

呼吸器の取り外しが「消極的安楽死」にあたるかどうかは議論がありますが、仮に患者さんの強い意思表示があったとしても、以下の新聞記事のような現状です。

呼吸器外し、倫理委が容認 異例の決定、時期尚早と岐阜県  
2007/01/08 06:42 北海道新聞

 岐阜県立多治見病院(舟橋啓臣院長)の倫理委員会が2006年10月、回復の見込みがないと判断された患者本人が事前に文書で示した希望に基づき、人工呼吸器の取り外しを含む延命治療の中止を容認する決定をしていたことが7日分かった。しかし岐阜県の「国の指針もなく、時期尚早」との意見で外されないまま患者は死亡した。

 倫理委が呼吸器外しを容認した例は全国的に珍しい。富山県射水市民病院で同年3月に呼吸器外しが問題化するなどし、国や学会が終末期医療の指針作りを進める中、注目されそうだ。

 病院によると、この患者は80代の男性で10月上旬、入所先の施設で食事をのどにつまらせて倒れ、救急車で運ばれた。搬送時は心肺停止状態だったが、蘇生処置で心拍が戻り、人工呼吸器が装着された。

 担当医は回復は難しいと家族に説明。翌日、家族が「重病で再起できなければ延命治療をしないでほしい」という1996年付の患者自筆の文書を提示し、人工呼吸器と強心剤投与の中止を依頼した。

便せん1枚重い意思 医師と家族、葛藤の3日間
2007/1/9 中日新聞

 白い便せんにきちょうめんな字で書かれた父の意思。80代男性の人工呼吸器を外すかどうか、岐阜県立多治見病院の医師と家族は3日間葛藤(かっとう)した。多治見市内に住む50代の二男は「父の希望を真剣に受け止めてくれた病院に感謝している」と静かに振り返った。

 二男が父から文書を預かったのは約3年前。母が脳出血で入院し「自分の意識がはっきりしているうちに」と父母2人分をまとめて渡された。

 1996年7月付で「現在元気で暮らしていますが、病床で将来再起ないとすれば延命処置をしないでほしい」などとする文面はほぼ同じ。夫婦で話し合って書いたようだった。

 「しっかりしていて感心した。父は20年ぐらい前から『植物状態になったら嫌だからその時はよろしく』と何度も言っていた」と二男は話す。

 昨年10月上旬の夜。駆け付けた集中治療室で、父は目をつむったまま口に人工呼吸器をつけていた。「回復は難しい」と聞かされ、あの紙のことが頭に浮かんだ。

 翌日の昼、病院2階の面談室で医師に文書を示した。「分単位で心停止します。いいんですか」。医師の言葉で延命中止の重みに気付き、急に涙があふれた。「どう思う?」。横にいた母に聞いた。「お父さんの書いた通りでいいよ」。穏やかな一言で決心がついた。

 病院の倫理委員会からは文書が父の自筆か、書いた当時と変わりないかと確認されたが「何度も話したので間違いない」と断言できた。二男は「1人の患者のため倫理委を開き真剣に考えてくれるのに驚いた。立場上、呼吸器を外せなかったのは理解できる」と話す。

 同病院でこうした手続きは初めてのことだった。間渕則文救命救急センター長は「何とか意思を大事にしたいと思ったが(時期尚早と言う)県と家族との板挟みでつらかった」と打ち明ける。

 あれから3カ月。二男は父の遺影に好きだった日本酒を供える。葬儀後、込み上げたのは「あの文書がなければ判断に苦しんだだろう。あれは父の愛情だった」という思いだ。自分もすぐに同じ文章を書いた。「自分の時までには、願う最期が迎えられるよう制度を整えてほしい」


この現状のまま、在宅死を推進して医療費を削減するというのにはやはりムリがあります。


私自身、高齢者の方がなくなる場面には何度も立ち合わせていただいており、正直、「もう少し穏やかにお見送りできたんじゃないだろうか……」と思うこともしばしばあります。患者さんのご家族さんからも、「正直、自分のときはここまではしないでくれと思う」といった心情をお聞きしたことも一度ではありません。
後期高齢者の方の終末期の医療行為はもう少し考える余地があるのではないか、という問題意識は、医療従事者をはじめとしておそらく多くの人が持っていると思います。ただ、それを医療費削減政策に引っ張らせてはいけない。
まず必要なのは「尊厳死」少なくとも「消極的安楽死」に対する議論を喚起して「自分はどんな風に死にたいか」「親や配偶者をどんな風に見送りたいか」「それを実現するにはどんなことが必要か」ということについて、もっとたくさんの人に考えてもらう必要があります。
それから、「消極的安楽死」に関する免責の条件、これを守れば刑事でも民事でも訴追されないという条件を明確にすることです。決して、先に後期高齢者の医療費にキャップをかぶせることではないでしょう。


そもそも官僚主導の医療政策しか存在できてない現状にムリがある


また、もう一つデリケートな論点があります。
お年寄りだけではなく患者さんに対して、医療を行うか否かを最終的に決めているのは、今のところ医者です。医学に対する専門的知識という点で医者と患者さん(あるいは医者でない人)の間には、大きな「情報の非対称性」が存在します。つまり、医者がやったその行為が正しかったのかどうかをより正確に判断できるのは結局医者だけ?ということになってしまうのです。
この問題について正面から議論がないままだと、医療行為について医者ではない人が意見しようと思えば、謙遜を重ねて遠まわしに意見をするか、感情的にぶつかっていくか、陰口をたたくかしかできない状況が続いてしまいます。
つまり、医者でない(医者を代表していない)人が医療行為そのものを俎上に上げた医療政策を引っ張っていくことは非常に困難になるわけです。
医療政策の多くが遠まわしで、寝首をかくようにして改革されていく理由の一つがここにあると私は考えています。
政策決定の過程において、医師会は、現場における専門職としての立場を代表できているかというと、いまのところ十分には機能できていないと言うしかないでしょう。
医師・医療従事者が主導して医療政策を立てることができない、医療政策について「診療報酬」というお金を通してしか話すことができない現状は、やはりムリがあり、いろんなゆがみを生み出す元になっていると思います。


長くなりましたので、続きはあさってに。


つづきその1 小泉改革は医療費を削減できていなかったことが分かる表をつくってみたよ - せんまい 〜あるいは寸止めクネクネ

*1:「支出比率が低く、カクワニ指数が低い」ページが見つかりません|医療経済研究機構(IHEP)

*2:診療報酬は厚生労働省の一方的な意見で決められているのではなく、医療提供側・患者側・行政側・第3者それぞれの代表者が集まる『中央社会保健医療協議会(中医協)』という集まりで話し合ってから決められています。その議事録は全て厚生労働省のホームページから見ることができます審議会・研究会等 |厚生労働省。超絶長いですが。傍聴もできるみたいです。