今、個人がブログを書くということ


先日のゼミでこんな話が出た。


「はじめた時にはいろいろ書こうと思っていたテーマがあるのに、いざブログに向かうと『全部は書けない』ことに気づいて、いつのまにかあいまいなエントリになってしまう」


この言葉は、「ブログを書く」ということが持つ根本的な問題をストレートに表現していると思った。
この言葉をきっかけに、「今、ブログを書くということ」とは個人にとってどんなことなのか、考えてみる。

センシティブでパーソナルだったインターネットと私

表現する、というのは、センシティブな行為だ。
青春の頃に表現に取り付かれるのは、心身ともに不安定になっていく自分の変化の過程を、瞬間ではあるけれど切り取ってとどめることで、それが自分自身であると確認できる気がするからだろう。
私を知ってほしい。
それが、表現に向かうプリミティブな感情だ。


コンピューターに向かう、というのは、とてもパーソナルな行為だ。
私とディスプレイ。そしてキーボード。基本的に、私はコンピューターに向かいながら誰かとおしゃべりしたりはしない。私とコンピューターの関係は、いつでもほぼ1対1だ。


コンピューターを手に入れたばかりの96年頃。私はインターネットに何があるのか、その世界がどんな風に広がっているのか全くイメージできなかった。なんだか世界中とつながるらしい、といった程度の認識しかできなかった。
その頃、私のコンピューターに対する感覚は「鍵のかかる日記帳」だった。普段発することのできない「本当の」言葉たちが、インターネットという小さな鍵穴を通って「いつかワタシの感覚が分かるヒト」に共有されることを夢見ている……そんな感覚だった。ハタチそこそこの青春マッタダナカであったワタシとコンピューターとのかかわりは、そんなふうに自然とセンシティブでパーソナルなものになった。
インターネットというanother worldで「誰も知らない私」になることができる。私はインターネットをそんな風に「感じて」いたのだ。


ところが、そんなセンチメンタルな私をよそに、インターネットはものすごい勢いで変化した。
ありとあらゆる情報が世界中で蓄積されて、Googleの登場をきっかけにそれらが適切に検索できるようになった。情報は「量の論理」ではなく、レアなものでも「適切に」手に入れることがある程度可能になった。
それだけではない。ネット上に何らかの問題が提示されたとき、それがたくさんの知を集めて解決に向かって動き出したりするようになった。


今。リアルを生き抜くために、私は梅酒の漬け方から最新のニュースまでなんでもネットで検索する。携帯を使ってどこからでもメールを出す。本屋で見つからないような本をネットで注文したり、友達の友達を紹介してもらったりもする。自分の仕事上の疑問について「同じ専門である」というだけでつながった人と議論をすることもできる。とある新聞記事について意見を述べている見ず知らずの人に賛成したり、反論したりもできる。
私がはじめてコンピューターを手に入れた頃、これらは「近未来のおとぎ話」だった。
でも、10年でこれらは「今ここにある日常」になった。そして、10年前のようなセンシティブさもパーソナルさも、ずいぶんと薄くなった。
……現時点で、インターネットを、ここではないどこかとしての「another world」だという人は、決して多数派ではないだろう。
2・3年前まで私は、そんな流れになんとなく「置いてきぼり」にされたような感覚があった。大切な空き地に新しいビルが建ち始めてしまったような。
(このあたりは2ちゃんねるにノスタルジーを感じるグループの感覚に近いのかも知れない。機会を作って考察してみたい)

「全員がそうなる運命になる時代」


そんなこんなで正直なところ、私はつい1年前まで、ブログを書くこと、すなわちネットで情報発信をすることにものすごい抵抗があった。
2006年2月、私はSNS上でその抵抗感を消化しようという気持ちを、こんなエントリにしていた。


コンピュータは好きですし、情報も好きなので、
インターネットは大好きなのですが、
インターネットでのコミュニケーションは
実は苦手です。
メールも最小限しか出しませんし、
しかも一通書くのにすんごい時間がかかります。
ノリは紙メールとまだ一緒。
ほかの方を笑えません。

顔が見えないからだけでなくて、
なんか、とにかく、こわい。

で、そんな気分を分析するのに、
とても役立った記事があったのでご紹介。
長いようだけど長くないから、ごめんなさい。


糸井 たとえば、ある時期
   「糸井重里」と検索したら
   「Google」の1ページ目に
   「糸井重里のバス釣りNo.1」という
   ゲームソフトを書いたサイトに行き当った。


   これは、
   そのソフトのニュースが流れた時期なんですけど、
   僕を知ろうとするときに、
   そのゲームソフトのことを知っても
   あまりに間接的じゃないですか。
   それが1ページ目に出てくるということは、
   僕についての
   よりビビッドな情報が「間に合っていない」。


   逆にブログの方で
   僕の名前を検索したら、
   きっと、今日ここで永江さんと
   話したことが、もう載っていますよ。


   その速度の違いっていうのは、
   とんでもないですよね。


   だから、
   少なくとも「発表したもの」については
   すべて、すでに知られていると
   覚悟するべきなんですね。


永江 しかも、
   「人の噂」は75日で消滅しましたが、
   ブログは半永久的に‥‥。


糸井 残ります。
   残るんだけれども、
   上書きされていく。


   そして
   情報の「表面」が上書きされたとき、
   そこから三層、四層下の情報って
   「ないこと」にされてしまいがちなんですよ。


   そのスピードでみんなが生きていて、
   そのスピードで今日や明日のことを考えている。


   僕なんかも、
   もう少し神経が細かったら
   ずっとブログで自分と『ほぼ日』の情報を調べて、
   ドキドキしながら「どうしよう、どうしよう」って
   毎日生きていると思うんですよ。


   でも、それは
   全員がそうなる運命になる時代なんだから
   さらされる側の実験台になってやろう、と。


永江 なるほど。


糸井 でも、外に発表しない情報は、
   伝わらない。
   だから、そういう情報を
   どれだけ大切に持つか。


   たとえば僕は今、
   アルタミラの洞窟の美術書
   夜中にパラパラめくって
   時間を過ごすことが好きなんですが。


永江 ええ。


糸井 このことを
   誰にも言わない限りは、
   僕だけの秘密じゃないですか。
   たった今、言ってしまいましたけれど。


永江 (笑)


糸井 だから、
   発表しないものこそが「僕」で、
   発表したものは「みんなの僕」なんですよ。


   そういうことを、
   ありとあらゆる人が
   やっていかなきゃならなくなる。


   まずは僕が、
   その練習をやっとくからね、
   っていうつもりなんです。


ほぼ日刊イトイ新聞 2006-02-03
永井朗さんが聞き、糸井重里がこたえた「宣伝会議」の特別講義。
いま、「コミュニケーション」とは。
http://www.1101.com/sendenkaigi/index.html


私はけっこう神経が細いので、
まさにドキドキしちゃうわけですよね。
そんで、使い捨てられるように上書きされていく情報の速さに
全然ついていけないわけです。


でも、どうやら
「全員がそうなる運命になる時代」みたいです。


だったら、ちょこちょこでも、
練習しておかないといけないのは、確かですよね。


だから、ちょこちょこ、
まあ何かしら頑張って書いてみようと思います。

インターネットは「another world」ではなく、リアルにつながる「public area」


糸井さんは上に引用した会話の中で、以下の2点に言及している。

  • ブログ(=ネット上の「個」)がネット上のスピード感を加速させていること
  • インターネット上はすでにpublic areaだということ

これらは、インターネットが生み出している新しい世界と「個」として付き合う上で、非常に重要な視点だ。それぞれについて、ブログを書くということに関連付けて論じてみる。

ブログ(=ネット上の「個」)がネット上のスピード感を加速させていること

コンピューターと人間の能力を比べる、というフレームはよく用いられるが、ちょっと前までは「コンピューターのほうが情報処理は速い。でも、人間にはコンピューターにはない感情がある」という文脈がほとんどであったように思う。
しかし、最近見かける文脈は、ちょっと変わってきている。


「「超」整理法」や「Picasa」等の心意気に見られるように、総合検索能力で見れば、人間の情報処理能力はかなり優れている。なぜなら、人間は「情報の重み付け」ができるからだ。
文書ファイルを検索するにしても、コンピューターだと「正確に」キーワードを入力しないといけない。ところが、人間は「うろ覚え」であっても、タイトルが目に入ると「あっ!」と思い出してピックアップすることができる。
(参考までに、私は現在、すべての文書をマイドキュメントにただつっこんで管理している。文書タイトルを「10枚原稿」「排除についてのゼミレポートMarkII」といった感じで「自分には分かる」ようにひとくふうしておき、それを修正日の時系列順に表示させているだけだ。これまでフォルダなどいろいろ工夫してきたが、何を見つけるにしても結果的にこれが一番速く、かつバックアップが簡単なのだ。ただし、メール添付するときには忘れずにタイトルを変えないと時々恥ずかしい思いをする)


ブログで発信される情報は、「個」の興味関心に基づいて選択されているわけで、まさに「重み付け」済みの情報ということになる。そのスピード感は(少なくとも2006年2月時点では)Googleの検索能力を超えていた、ということだ。そのスピード感は、おそらく今も変わっていないと思う。
ここに、メディアで発信される情報とは違う、個人が発信する情報の「強み」が見えてくる。
社会は、どんなにシステムが強大になっているように見えても、「個」が集まることで構成されている。massになったときに見えにくかった「個」の動きが、インターネットの普及とブログを通して「かなりリアルタイムに」見えるようになってきているのだ。


そういう風に考えていくと、「こんなこと、ブログに書くほどのことではないのかもしれない……」というのは、ちょっとちがう、ということになる。
新聞・テレビ・ラジオ・雑誌とメディアのキャパシティが限られていたときには、より広く役に立つ情報を残すべく、情報の「量」そのものを絞っていく必要があった。でも、インターネットにおいては、キャパシティはほぼ無限大だ。だから、情報のインパクトは小さくなる反面、必要な人がその情報を見つけ出すことができさえすれば、どんな小さな情報でも有用な情報、ということになる。
「同じ系列店でもあっちの駅前のソバ屋のほうがうまかった」でも、「最近渋谷でよく見かけるのはこんな高校生」でも、受け取る人にとって意味があれば、その情報は「無駄」ではないのだ。
情報の選択は「発信する側」ではなく「受け取る側」が行うもの━━それが、インターネットにおける情報のあり方なのだ。
ということは、、これまでもてはやされてきた情報と、ブログ(=個人発信)で世の中の役に立つ情報とは、根本的に質が異なる、ということになろう。


では、これからの世の中で役に立つ情報とは、一体どんなものなのか?……それを、世界中でたくさんの人が、ブログを書きながら模索しているのが、「今」という時代なのだ。
そして、その流れにvoluntaryに参加すること、その集合が、今はまだコンピューターにはなし得ないスピード感を生み出していく、ということなのだろう。
「個」のvoluntaryな参加。それがなければ「集合知」は実現し得ない。

インターネット上はすでにpublic area〜「公人としての自分」を作るということ

1年半前の私が「なんか、とにかく、こわい」と表現した「インターネット上に自分(とその発信物)を存在させること」の怖さは、おそらくこのインターネットという世界が「いままで感じていたのとは違う」「見たこともない」スペースになっていたからであるように思う。それはすなわち、10年前に比べて現在のインターネットは、非常にたくさんの人が参加し、検索が容易かつ適切になったことによって、飛躍的に「公 public」としての性質を強めたということだ。


10年前から1〜2年ほど前まで、少なくとも私自身はインターネットを「another world」だと確かに感じていた。しかし、今やインターネットは、すでに名実ともに「public area」になったといえる。
時々、むやみな誹謗中傷や偏った意見を書き込んだブログが掲示板やSNSなどのコミュニケーションスペースで取り上げられ、そこを経由した人たちによる非難や批判的なコメントが殺到してブログが閉鎖においこまれる、といった出来事が起こる(いわゆる「炎上」)。すべての炎上が同じ構造を持っているわけではないが、そのうちのいくらかは、書き手のインターネットに対する「public感」の不足が生んだトラブルであるように思われる。
書いたほうにしてみれば、突然の炎上はおそらく「寝耳に水」であったろう。「ネットはリアルの世界とは違うから」というanother world感覚で書き込んだものが、思いがけず多くの人の目に触れて非難を受ける。それはまるで、部屋の中で家族に軽口をたたいていたつもりが「なんだその物言いは!」といきなり他人が大勢どかどかと家に踏み込んできた、といった感覚なのではないだろうか。


あえて繰り返すが、インターネットはすでに「public area 公の場」だ。いつ検索に引っかかって人目に触れるかわからないという現実がある限り、どんな小さな書き込みであっても、それは公衆の面前で発言しているという「感覚」を持たなければならない。
しかし、全国放送のテレビに出るような気持ちで常に緊張する必要は全くないだろう。既存メディアに比べれば、露出度が圧倒的に低いのは、事実だからだ。
つまり、「露出度は低いけれど、興味を持っている人の目に触れる十分な可能性と、他メディアにブーストされてより多くの人の目に触れる可能性を持っている」というブログの「公 public」感を十分に理解し、身に付ける必要がある、ということだ。これは既存メディアでの情報発信にはなかった「新しい感覚」であり、これからインターネット上で知的作業を行っていく人にとっては習得必須のスキルということになろう。
(「無断リンク禁止」の議論もこの文脈で進めることができるだろう。機会を作って考察したい)


この「新しい感覚」で重要なことは、自分にとっての「public」と「privacy」を自分で決めていく必要があるということにある。
糸井さんのアルタミラの美術書の話は非常に良い例えであると思う。ブログによって、情報発信はとても簡単になった。だから、書こうと思えば「あの駅の駅員はなってない」でも「あのタレントはもう落ち目だな」でも気軽にエントリできる。しかしながら後日、「でもあなた、先日○○線の駅員を理由もなく非難していましたよね。そのような態度があるから、今日のエントリのような考察しかできないんじゃないですか」等とコメントされてしまう可能性があるわけだ。それとこれとは話が違う、といくら弁解しても、一度できたpublic imageを短時間で訂正するのは難しい。


自分はインターネットというpublic areaでどんな風に見られたいのか。自分にとって他人に知られたくない、大切にしておきたい事はどんなことなのか。ネットで「個」として情報を発信するということは、同時に個人が自分のpublic imageを意識して作り上げていく必要がある、すなわち「公人としての自分」を個人で作っていくということであると考える。
(これを逆手にとって、これまでのメディアにはまず載らなかったであろうパーソナルなテーマを取り上げて発信していく、という方法もあるだろう。自分にとってストレスにならない範囲で「public」と「privacy」をうまくコントロールすることができれば、そのような取り組みも可能になる)


私とコンピューター。そして表現。このパーソナルでセンシティブな罠にとらわれることなく、どこまでインターネットというpublicをイメージして行動することができるか。それが、「個」がブログを通して情報を発信する際に求められる「新しい感覚」なのだ。

『さあ、ブログを書きはじめよう』


はじめのきっかけに戻る。


「はじめた時にはいろいろ書こうと思っていたテーマがあるのに、いざブログに向かうと『全部は書けない』ことに気づいて、いつのまにかあいまいなエントリになってしまう」


この感覚は、向かい合っているインターネットというフィールドに対するイメージがあいまいであること、さらにインターネットに向かう自分のpublic imageがあいまいであることに、原因の一端を見出すことができるのではないか、というのが、私の意見だ。
だから、インターネットのpublic areaとしての性質を十分に認識し、自分のpublic imageと邪魔されたくないprivacyのスタンスを決めることができれば、「書きたいテーマをどのように料理していくか」を決めることができるのではないか、と考えている。


このエントリは、1年半前にSNSで情報発信の練習を始めた私自身への激励である。


さあ、練習の成果をこれから試していこう。そして、ネットに広がる知の新しい可能性にvoluntaryにかかわることで、たくさんのゾクゾクを感じていこう。
イメージとしては、池袋西口公園で、ゼミの仲間に囲まれつつ、自分の意見をプレゼンテーションしているような感じ。興奮すると、ちょっと声が大きくなる。そうすると、通りすがりの人がちらっとこっちを見る。ときどき先生が立ち上がるかもしれない。そうしたら、たくさんの人が立ち止まってくれるかもしれない。
でも、そこに提供できるのは、私から出た私の意見だけだ。それが、インターネットに「個」で存在するということだから。
多くのブログの先人が異口同音に言っていることは、ブログを書くことで成長できた、ということ。
私は、ゼミの仲間でも、見知らぬ人でも、私の意見への感想や意見や反論を出してくれることを心から期待している。
今という時代の中で、自分にできる「知の作業」を、可能な限りダイナミックに楽しみたいと願っているのだ。